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6月2日は裏切りの日!由来は?あの大事件には黒幕がいた?

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6月2日は、裏切りの日。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀が謀反をおこし、京都・本能寺に宿泊していた主君である織田信長を襲撃した「本能寺の変」に由来しています。

この事件は謎が多く、また、秀吉の天下統一のきっかけとなりました。

今回は、本能寺の変の「謎」と「秀吉」に注目して、
・秀吉の出世を決定付けた「中国大返し」とは?
・明智光秀は、なぜ謀反をおこした?

についてお伝えします。

秀吉の出世を決定付けた「中国大返し」とは?

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本能寺の変がおこった頃、信長は天下統一を目前に控えていました。天下統一をめざすという意味の天下布武は信長の有名な言葉ですね。

本能寺の変の3ヶ月前(1582年3月)に強敵であった甲斐の武田氏を滅ぼし、東北の伊達氏、最上氏などの有力大名も従う姿勢を見せ、小田原の北条氏とも同盟を結んでおり、東国は、越後の上杉氏(上杉景勝)を残すのみでした。

西国では、四国の長宗我部氏、中国の毛利氏と敵対していましたが、九州の大友氏、島津氏とは友好関係を結んでおり、信長軍の圧倒的な兵力によって統一されるのも時間の問題でした。

本能寺の変は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に命じて毛利攻めを行っていたときにおこりました。

その頃、秀吉は毛利配下の備中高松城(岡山県岡山市)を攻めていましたが、明智光秀の謀反を聞くと、すぐさま毛利方と和睦を結び、明智光秀を討つために姫路に引き返します。のちに「中国大返し」と呼ばれるものです。

移動した距離は10日間で200㎞。人が1時間に歩ける距離は平均4km。1日20㎞、甲冑を着たまま5時間歩きどおしで10日間ということになります。

姫路に到着してすぐに、明智光秀を追って大阪方面へ、そして本能寺の変から13日後に光秀を討ち取り勝利します。これが山崎の戦いで、別名天王山の戦いといいます。天王山は大阪と京都の境にある山。先行きを決定付ける重要な試合である「天王山」の語源となったものです。

なぜ秀吉が、こんなに早く光秀を討つことができたのか?

それは、本能寺の変の翌日に、光秀が毛利方に送った使者を捕らえて情報を得たこと、信長の死を知らせず、毛利方と素早い和睦交渉を行った秀吉の判断力と交渉力にあるといえます。

この後秀吉は、信長の後継者を決める「清洲会議」、柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、天下統一に向けて、出世街道をかけ上がります。

明智光秀は、なぜ謀反をおこした?

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光秀が、なぜ謀反をおこしたかは解明されておらず、日本史の謎、日本史ミステリーと言われています。

光秀は、最後の室町将軍・足利義昭と織田信長の両方に仕える家臣だった頃があり、歴史ドラマでは、将軍をないがしろにする信長を許せなかったとか、信長に激怒され、皆の前でボコボコに折檻されて恨みをもったなどの逸話が描かれています。

しかし、信長の気性から、ひどい仕打ちをうけたのは光秀だけではありませんし、謀反の理由とされるエピソードも、後付けで創作されたものが多いといいます。

そのため、なぞがなぞを呼び、秀吉や家康が黒幕だったのでは?という説があります。

特に家康黒幕説は、”証拠”となるものがいくつかあります

徳川家康の側近で、江戸のまちづくりにも影響力のあった僧・天海。彼は明智光秀だったのでは?という説があります。

家康をまつった日光東照宮に、光秀の家紋である桔梗紋があるなど、いくつかの根拠が示されています。

また、家康の孫、三代将軍・家光の乳母である春日局の父は、明智光秀の重臣であった斎藤利三(としみつ)。利三は秀吉によって斬首されています。つまり、謀反人の娘を孫の乳母にしたということです。

家康が黒幕だった、実は光秀は生きていて天海になっていた、という歴史ミステリーが事実だったら、おもしろいですよね。

まとめ

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歴史は勝者がつくる、と言われます。

本能寺の変のミステリーは、事実がわかると不都合なことがある人によって、ミステリーにされたのかもしれません。

実直な人として描かれることが多い明智光秀。天下を取る欲があったというイメージもありません。

そんな人が裏切るのは、よほどのことがあったか、黒幕がいたのか。

本当に怖い裏切り者は、表に出てこないのかもしれませんね・・・。

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