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8月23日は白虎隊自刃の日!白虎隊の生き残りのその後は?

2017/06/23

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8月23日は「白虎隊自刃(じじん)の日」

1868(明治元)年8月23日、会津藩の白虎隊が、城下の飯盛山で自刃しました

白虎隊は何度かドラマ化されましたが、白虎隊士が飯盛山で「お城が燃えている!」と叫ぶセリフは有名です。

実際に火の手が上がったのは城下の町だったのですが、白虎隊士たちは、会津城が落城し、戦に負けたと思い、のどを突くなどして、自刃してしまいます。

今回は、白虎隊士は、なぜ自刃してしまったのか、そして、20名の隊士でたった一人の生き残りの白虎隊士はその後どうなったのか、当時の状況もふまえて、お伝えしていきます。

戊辰戦争、大政奉還、王政復古の大号令を簡単解説!

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白虎隊が戦ったのは、戊辰戦争。この戦争は、おおざっばに言うと、薩摩、長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍の戦いです。その中でも、会津での戦いを会津戦争と呼びます。

白虎隊自刃の前年、慶応3年(1867年)10月14日に、15代将軍・徳川慶喜は、天皇に政権を返上する「大政奉還」をします。

これは、武力で幕府を倒して新政府を作りたいという、新政府側の考えを阻止するためでした。

慶喜としては、政権を返上しても、朝廷や天皇が政治をすることはできない、また徳川を頼るだろうという考えがありました。

しかし、そうならないために、薩摩を中心として、「幕府を廃止し、天皇のもとに徳川将軍家をのぞいた新政府を作ること」を宣言したのが「王政復古の大号令」です。

この宣言に反対する旧幕府軍と、幕府を戦で倒したいと思っていた新政府軍が戦ったのが「戊辰戦争」です。

会津藩は、旧幕府軍の中心的存在でした。それはなぜなのか、会津藩の立場から説明していきます。

会津藩はどうして「旧幕府軍」として戦った?

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この頃、会津藩主・松平容保(かたもり)は、反幕府勢力を抑える京都守護職についていました。

この役職は、なかば押し付けられたものでした。

当時、多くの藩が財政的に苦しい状態でした。会津藩は特に借金につぐ借金で、農民も年貢に苦しめられ、財政は破たんしていました。

そのため、会津から遠く離れた京都に、多くの軍隊を派遣することは、ほぼ不可能に近い状態。家老の西郷頼母(さいごう たのも)は大反対します。

しかし、容保はその役職を引き受けます。

理由は、会津藩初代藩主・保科正之(ほしな まさゆき)が定めた『会津家訓十五箇条』を守ったからと言われています。

保科正之は、3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光からの信頼も厚く、幕府の重臣だった人です。将軍家ゆかりの「松平」を名乗らず、養育してくれた保科家への恩義から、生涯保科姓を通しました。

『会津家訓十五箇条』の第1条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」という言葉を、容保は忠実に受け止めます。

容保は養子でしたが、だからこそなおさら、会津藩の役割をまっとうしようとしたのかもしれません。

結果的に、それが会津藩に悲劇をもたらしました。

白虎隊が自刃した理由は?本当は勘違いじゃなかった?

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戊辰戦争で代表的なものは、新政府軍が旧幕府軍と戦いながら北上した「鳥羽伏見の戦い」、会津戦争を含む「東北戦争」、「箱館戦争」です。

鳥羽伏見の戦いと、東北戦争の間に、慶応4年(1868年)の「江戸無血開城」が行われています。

年代順にならべると、大政奉還→王政復古の大号令→鳥羽伏見の戦い→江戸無血開城→東北戦争(会津戦争)→函館戦争となります。

江戸無血開城は、西郷隆盛と勝海舟の会談の様子が描かれた絵が有名ですよね。

これは、旧幕府側が行った、江戸城攻撃を阻止するための交渉でした。この交渉が成功し、江戸を通過して、新政府軍は北上しながら、抵抗する旧幕府軍と戦っていきます。

その新政府軍との戦い(会津戦争)に備えて結成されたのが「白虎隊」です。

会津藩では、年代別に「白虎」「朱雀(すざく)」「青龍(せいりゅう)」「玄武(げんぶ)」の4つの班が結成され、白虎隊は16歳から17歳の少年で編成されていました。

白虎隊は総勢343名で、身分によって5つの小隊にわかれていました。その中で、飯盛山で自刃したのは、身分の高い武士の出身である、士中二番隊の20名です。

唯一生き残ったのが、飯沼貞吉(いいぬま さだきち)です。彼の手記によると、「負け戦を覚悟で戦ったとしても、敵に捕まって生き恥をさらすよりは自害しようと決意した」とあります。

落城したと勘違いし、自刃したのではないというのが本当のようです。

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たった一人の生き残りの白虎隊士はその後どうなった?

では、生き残った貞吉少年は、その後どうなったのか?

貞吉は、飯盛山でのどを突いて自害をはかりますが、まだ息があるところを、会津藩士の妻によって発見されます。そして、町医者や軍医の治療を受け、一命を取りとめます。

その後、新政府軍の長州に捕らえられ、長州藩士の楢崎頼三(ならさき らいぞう)に引き取られます。そして、長州に連れて行かれ、庄屋の高見家で養育されることになりました。

しかし、このことは長州藩にも会津藩にも知られてはいけないとの判断から、貞吉の母にのみ生きていることを知らせ、ごく一部の人だけが知る秘密とされました。

楢崎、高見両家が子孫にだけ密かに語り継いでいたため、貞吉の子孫がそのことを知ったのは、2000年以降です。

貞吉は何度も自殺をしようとしますが、楢崎頼三が「国の役に立てるよう勉強せよ」と諭し、勉学に励むようになったと言われます。

明治5年(1872年)に、貞吉は工部省技術教場に入所、電信技師になりました。各地で勤務後、日清戦争に技術部総督として出征したこともあります。

広島藩士の娘と結婚した貞吉は、最後の勤務地である仙台で晩年を過ごし、1931(昭和6)年に77歳で生涯を終えました。

まとめ

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戊辰戦争では、鶴ヶ城(会津若松城)は、新政府軍が打ち込んだ大砲で、無残な姿になりました。

戦死した人や自害した人も多く、生き残った会津藩士と家族たちは、青森の下北半島に強制移住させられました。

NHK大河ドラマ『八重の桜』でも描かれていましたが、その生活は過酷なもので、餓死していく人もいました。

2018年は、戊辰戦争から150年。過酷な運命をたどった会津藩と白虎隊士に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

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