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4月19日は地図の日!中高年の星・伊能忠敬の偉業を知ろう

2017/04/23

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4月19日は「地図の日」そして「最初の一歩の日」です。

1800(寛政12)年閏4月19日に、伊能忠敬が、蝦夷地(今の北海道)の測量に向け、出発した日が由来となっています。

この時、忠敬は55歳17年をかけて、日本国中を徒歩で測量しました

最初の測量では、約70cmの歩幅で歩けるように訓練し、数人で歩いて、歩数の平均値を出して計算しました。

その後、一間(約180cm)ごとに印がついた縄を使って測量したり、縄のように伸び縮みしない鉄鎖を使用するなど、技術を向上させながら、地道に測量をしていきました。

今回は「地図の日」「最初の一歩の日」にちなみ、日本で初めて精密な日本地図を作った伊能忠敬の生涯をまとめました。

「中高年の星」伊能忠敬ってどんな人?

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忠敬、婿に入って伊能家を建て直す

伊能忠敬(いのう ただたか)は、江戸時代中後期の人で、元は商人でした。

息子に跡を継がせ、引退後に測量や天体を学び、日本地図を完成させた「中高年の星」なのです。

忠敬は、1745年に、今の千葉県九十九里の名主の家に生まれました。

そして、今の千葉県香取市佐原の伊能家の婿になります。そのとき、忠敬17歳、妻のミチは21歳でした。

伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでおり、佐原では大きな力をもっていましたが、忠敬が婿に入ったころは、危機的な状況になっていました。

ミチが1歳の時に、当主である父親が亡くなり、当主不在のまま、親戚が経営していたからです。

17歳で当主になった忠敬は、大変な苦労もありましたが、伊能家を再興し、財産を築きました

また、災害や飢きんには貧民救済を行い、佐原から一人の餓死者も出さなかったと言われています。

商人として成功をおさめた忠敬でしたが、暦学や天文学を学びたいと思うようになり、49歳で家督を息子に譲り、50歳で江戸に出ます

隠居して自由になったとはいえ、50歳から新しい一歩を踏むのは、すごいですよね。

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忠敬、蝦夷地の測量に出発する

江戸で忠敬は、幕府の天文方である高橋至時(よしとき)に弟子入りします。至時は31歳、忠敬の19歳年下でした。

忠敬は、寝る間も惜しみ、天体観測や測量の勉強にはげみます。

当時、天文学者の間で「地球の大きさ」が話題になっていました。

忠敬も、地球の大きさを知るために、当時正確に測ることができなかった「緯度1度の距離」を調べたいと思うようになります。

今までの天体観測の結果から、緯度1度の距離を知るには、江戸と蝦夷地(今の北海道)の間の正確な距離を測ればよいのではないかと推測していました。

そのころ、蝦夷地には、ロシアの特使ラスクマンが、通商を求めて根室に入港するなど、ロシアの圧力が高まっていました。

幕府も危機感から、蝦夷地の調査を行っていました。

そこで、高橋至時は、蝦夷地の正確な地図を作る計画を、幕府に願い出たのです。

蝦夷地の測量のついでに、緯度1度の距離も調べてしまおうという狙いです。そして、その事業の担当として、忠敬を推薦しました。

すぐに許可は下りなかったものの、ついに、忠敬は55歳で蝦夷地に向けて出発、1日に約40kmを移動し、180日間かけて測量をしました。そして、20日ほどで地図を完成させ、幕府に提出したのです。

出発した時点では、幕府もそれほど期待をしておらず、資金も最低限だったため、忠敬が、今に換算すると1,400万円を負担しました。

忠敬が築いた財産が、正確な日本地図を作るきっかけになったとも言えますね。

忠敬、日本全土の測量を達成する

その後も許可を得て、測量は続き、目的であった緯度1度の距離が28.2里(約110㎞)であると導き出します。

それが、高橋至時が翻訳したオランダの天文書『ラランデ暦書』とかなり近い値だったため、師弟は手を取り合って喜びます。

しかし、それも束の間、至時は翻訳作業の無理がたたり、39歳でこの世を去ってしまいます。

出会って9年。師匠の死の悲しみを越え、忠敬は東日本の地図を完成させます。59歳の時でした。

そして幕府に提出し、11代将軍・徳川家斉の目に止まることになるのです。

地図のあまりの精密さに驚いた幕府は、正式な幕命として、九州、四国を含めた西日本の測量を命じます。

許可を得ていたとはいえ、個人事業として行っていたものが、国家事業となったわけです。

佐渡島や五島列島、屋久島などの島を含め、日本全土の測量を終え、江戸に戻ったのは、忠敬71歳の時。

通算10回、17年にも渡る測量で歩いた距離は実に4万km、地球一周分したことになります。

それから、膨大な測量データをもとに、地図作りが始まります。そこに、足りない分の地図をもった人物が現れます。

その人物とは、間宮海峡を発見した間宮林蔵

彼は、忠敬から測量技術を学び、蝦夷地測量で許可が下りず、忠敬が測量できなかった部分の蝦夷地の地図を持ってやってきたのです。

すべてのデータが揃い、あとは地図を完成させるだけとなった矢先、忠敬は73歳でこの世を去ります

事業は弟子たちに引き継がれ、3年後の1821年、地図は完成します。蝦夷地の測量から21年後のことでした。

忠敬の日本地図と「シーボルト事件」の関係は?

忠敬が測量し、弟子が完成させた「大日本沿海輿地(よち)全図」、通称「伊能図」と呼ばれるこの地図は、幕府に献上され、今でいう、国家機密とされました。

シーボルト事件は、この「伊能図」を国外に持ち出そうとしたことが、発端となっています。

1828年に、オランダ医師シーボルトの帰国の荷物に「伊能図」が入っていたのです。

贈ったのは、忠敬の師である高橋至時の息子・高橋景保。幕府の天文方で、忠敬の死後、伊能図の作成を引き継いだ一人です。

おそらく景保は、それほど重大なことと思わず、「おみやげ」くらいの感覚だったと考えられます。

しかし、当時は頻繁に外国船が日本に近づく緊張状態だったため、「国家機密を国外に持ち出すことを手助けした」として、幕府は景保を投獄、翌年に景保は獄死してしまいます。

日本が植民化されなかったのは「伊能図」のおかげ!?

そんな悲劇も生みましたが、幕末に「伊能図」を見た外国人が、その精密さに驚き、アジアの未開の地だと思っていた日本への考えを改めたと言われています。

アジア各地が植民地化されていった時代に、日本が植民地にならなかったのは「伊能図」のおかげかもしれません。

「伊能図」の原本は、明治時代に消失してしまいましたが、2000年代に入り、アメリカ議会図書館で写本が発見され、その後、国内でも足りない部分の写しが発見され、奇跡的に全容が明らかになりました。

そして、2006年に「伊能大図総覧」が刊行され、伊能図が一般の目にも触れられるようになったのです。

「伊能図」の大図214枚を並べると、体育館いっぱになる大きさ。かなりのスケールです。

伊能図(wikipediaより)

まとめ

「地図の日」と伊能忠敬の生涯をまとめてみました。

忠敬が「中高年の星」「人生を2度生きた男」として注目されるきっかけになったのは、井上ひさしの小説『四千万歩の男』。

50歳で江戸に出て、新しい学びを始めた伊能忠敬。

やりたいことがあれば、年齢に関係なく挑戦するという生き方は、私たちの生き方のヒントになるかもしれませんね。

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